もし
もし今の僕が肉体的に死んで、今このことを考えている僕が死んだとしても、どこかで生まれた誰かが、この日記、あるいは他の、僕の残したリソースを読み、「これは僕が書いたのではないか?」と思うならば、それはまた、新しい僕なんじゃないだろうか。
そう考えると、一日一日の、あらゆること、一切合切、本当になにからなにまでをデジタルな記録として残し、コピーを容易にし、拡散可能にしておくことで、今は「誰か」である「僕」に伝える、というのはわくわくすることだと思えてくる。ただし、この世の中は、意識できる記憶でさえ、クソみたいな制限がたくさんあって、なにからなにまで書くことは難しいし、意識できない記憶については記録に残しようがない。
ただ、どこかの「僕」に、僕であることを知らせるならば、なにもかもを記録する必要はなく、むしろ、必要最低限な情報だけでいいとは思う。現在の僕の延長にある未来の僕にしても、別の「僕」にしても、そんなに必要なことは変わらず、常に「僕は僕であった」ということだけだ。
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